タイトル | 君は、風に還る 第七章 ー紅の扇、月夜の幕引きー | ||||
タグ | *君は、風に還る *巫女装束 *狐巫女 *巫女 | ||||
コメント | 羽が覗いた。 それはほんの一瞬。 しかし、酒場の灯りの下では、あまりに目立つ青緑の輝きだった。 「……おい、今の……なんか、見えなかったか?」 「羽、か……?」 狩人たちの目が、酒臭い空気を裂くように鋭くなる。 飛鳥は体を強張らせ、凍りついたように動けなくなった。 ——そのときだった。 「まぁまぁ、こないだはひどぅございましたなぁ。 森で弓構えられたときは、心臓止まるか思いましたえ」 艶を帯び、ゆっくりと舌の上を転がるような、女の声。 飛鳥の肩にそっと添えられる白い手。 見上げれば、そこにいたのは——九重だった。 白い狐面。流れるような白髪。 朱の袴の裾をわずかに持ち上げるように立つ姿は、 まるで舞台の上の姫君のようだった。 狩人たちの視線が、一斉に彼女に向く。 九重は、扇子を片手にすっと近づき、 男たちの真正面に立ち、ゆるやかに面に手をかける。 「……せやさかい……今日は、きちんとご挨拶を」 白い指先が面を上に滑らせ、 一呼吸遅れて、面の下の顔が現れる。 男たちが、息を呑んだ。 「……!」 白磁のように透き通る肌。 細く、艶やかな瞳。 艶やかな唇が、ほのかに上がる。 その表情には、媚びはない。 けれど見た者の心を掴んで離さない—— 「うちの“役者”がちょぉっと、変わった子でしてな」 扇子を閉じ、胸元に納める。その拍子に、胸元の合わせが少しはだけた。 そこから微かに覗くのは、透けるような肌と着物の奥の谷間。 狩人たちの視線が一斉に吸い寄せられる。 その隙に、彼女は手早く飛鳥へと外套をかけ直す。 羽の見えた部分を自然に隠しながら、 身体のラインすら見えぬよう、フードを深くかぶせる。 「せやけど、今日はうちら、舞台の帰りどす。衣装も脱がせまへん。 この娘(こ)も、ほら……べろんべろんやさかい、あんまりよう喋らへんの。 朝になったら、ちゃんと“人間の姿”に戻りますさかい」 狩人たちは、まだ半信半疑の表情だった。 「……おい、ほんとかよ……」 「……まぁ、けど……あの顔見たら、なんか……」 「舞台衣装……かもな。うん。そうかもな……」 狩人たちは、もう飛鳥に目を向けてなどいなかった。 視線は九重の胸元か、端正な顔立ちの妖艶な美貌に向けられている。 「う、うん……まぁ……気ぃつけて、な……」 「おおきに……旦那衆。うちらの方が、よぅ心得ておりますえ」 最後にひとつ、再び扇子を取り出して開き、くるりと回す。 その所作はまるで舞台の終幕。 くるりと舞った扇の縁が、ふわりと風を起こし、ランプの炎をわずかに揺らした。 九重は飛鳥の手を取り、華やかに、しかし速やかにその場を後にした。 *** 路地裏の静かな場所まで来て、ようやく九重は足を止めた。 月の光が、石畳に静かにこぼれている。 飛鳥はまだ震えるように肩を揺らしていた。 けれど、九重がそっとその肩に手を添えると、不思議と心が落ち着いてくる。 「……あぁ、びっくりしたわぁ。……あんた、よう生きてたなぁ」 「……なんで……ここに……?」 「ふふ。そら、“観てた”んよ? ずっと。 ちゃーんと、見守ってるいうたやろ?」 九重はゆるやかに面を外すと、 白い指でそっと髪をかき上げ、頬にかかる髪を払う。 その仕草すら、どこか艶めいている。 「けど……あんたの“初舞台”が酒場やとは思わんかったなぁ。 ……酒と欲と本音の渦巻く場所え? 楽しいけど、あぶない場所でもある」 飛鳥は、俯いたまま呟いた。 「……でも、ちょっとだけ、嬉しかった…… 誰かと喋って、笑って…… あたし、ずっと、ひとりだったから……」 九重は、少しだけ表情を和らげた。 その瞳の奥に、淡い哀しみのような光が宿る。 「……せやな。孤独には……風の音すら冷たぅなる」 九重は、はだけた胸元をそっと整えながら、扇子を肩に当てるように置いた。 「……でもなぁ」 そう言って、彼女は少し身をかがめ、 飛鳥の耳元に顔を寄せる。 声は囁くように、けれど艶やかに。 「さっきの、あたしの“芸”、ちょっと艶っぽぅなかった? 旦那衆、口ぽかん開けて……あれ、なかなかええ反応やったわぁ」 「……な、なに言ってんの……!」 飛鳥は顔を真っ赤にし、ぐいっと距離を取る。 それを見て、九重はくすりと笑った。 「うふふ、けど、あんたを守るためやもの。 色香も武器やで? 昔はそれで神さまもだませた言うやろ?」 扇子でそっと唇を隠しながら、いたずらっぽく目を細めたその仕草は、やはりどこか妖艶だ。 「……まぁ、けど今日はほんまに、よう頑張ったなぁ」 九重はふっと表情を戻し、まっすぐに飛鳥を見つめた。 「逃げずに、人の中に入って、自分の意志で喋って。 あんた、うちの想像より、ずっと強い子やわ」 飛鳥はほんの少しだけ微笑みを浮かべた。 月の光が、ふたりの影をそっと重ねるように照らしていた。 *** 石畳の道を静かに歩く。 九重と飛鳥は、月明かりの下、肩を並べて夜の街を抜けていた。 喧騒の裏側には、こんなに静かで、こんなに穏やかな道があったのだと、飛鳥は初めて知る。 軒先のランタンが風に揺れ、小さな明かりがふたりの影を石畳に落とす。 「……静かだね、夜って」 「ふふ、酒場の裏はね。 人の声がいちばん響かんとこやさかい、風もよう通る」 九重は言いながら、袖で口元を隠してくすりと笑った。 「ここの風、ちょっと甘い匂いしてまへんか?」 「え……うん……パンとか、果物とか……」 「それが、“人の営み”どす」 飛鳥は、知らない匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 あたたかくて、香ばしくて、少し焦げくさくて、でも——生きていた。 「……あたし、街の匂いって知らなかった。 人の声とか、笑い声とか……うるさいけど、ちょっとだけ……」 「……ちょっとだけ?」 「……好きかも」 九重はその言葉に、そっと目を細めた。 この子は今、風の中にほんの少しだけ根を下ろそうとしている——そう思った。 「……せやけど、好きになるってことはな。 時々、痛ぅなるいうことや」 「……うん。でも、ひとりぼっちよりいい」 その答えに、九重は扇を開いて顔を隠しながら、 まるで風に向けて祈るように、小さく呟いた。 「……そうやな。せやなぁ……」 風がふたりの間を抜け、静かな夜道に舞い上がった花びらが、 飛鳥の羽にふわりと触れて、去っていった。 飛鳥はその一瞬を忘れまいと、そっと目を閉じた。 それは、誰かが「ここにいていい」と言ってくれた気がしたからだった。 つづく |
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iコード | i962767 | 掲載日 | 2025年 05月 10日 (土) 20時 50分 03秒 | ||
ジャンル | 写真 | 形式 | JPG | 画像サイズ | 1320×1309 |
ファイルサイズ | 316,720 byte |
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