タイトル | 君は、風に還る 第六章:空の眼、街のざわめき | ||||
タグ | *君は、風に還る | ||||
コメント | 朝露が葉を濡らし、光の粒が草の上を転がる。 鳥たちはすでに目を覚まし、森の上にさえずりが満ちていた。 昨日と同じ森。けれど今日は、木漏れ日も風の匂いも、どこか鈍く感じられた。 飛鳥は、眠っていた倒木から立ち上がり、森を歩いていた。 ひと晩を超え、身体は、少しずつ地面の感触に慣れはじめていた。 しかし、依然としてまだ羽は重い。足元はおぼつかない。 ——そして、心は重く、締め付けられる様に上手く動かない。 しばらく歩くと、森の木々が開けて、陽の当たる高台に出た。 飛鳥は、そこで足を止めた。 風が吹き抜ける。 草がなびき、目の前に、広がる景色があった。 「……あれ……」 思わず、呟く。 遠くに、街があった。 石造りの壁に囲まれた集落。 高い建物、煙の上がる屋根、通りを行き交う人々の群れ。 荷車、旗、商人、子供、犬、馬。 そこは、命のざわめきに満ちていた。 ——そして、飛鳥は気づく。 「……すごい……見える……」 遠く離れているはずのその街の、 歩く人の顔の表情、揺れる髪、地面の砂埃まで—— すべてが、目に飛び込んでくる。 まるで、すぐそばにいるかのように。 「……あたし、こんなに目、良かったっけ……?」 知らない自分に驚いた。 そして、少し——怖くなった。 (こんなの、人間じゃない……) 視力だけじゃない。 羽も、脚も、感覚も。 全部、自分の知っている“女の子”とは違う。 昨日の狩人たちの目が、また脳裏に蘇る。 「化け物だ」「狩るしかない」と、あの冷たい声と矢の音。 (……近づいたら、また殺されるかもしれない) そう思った。 街は賑やかで、にぎわっていて、そして——怖かった。 けれど。 「……いいな……」 小さく、こぼれるような声。 人が笑っている。 商人が荷を運び、子供が追いかけっこをしている。 誰かが手を振り、誰かが歌っている。 そのすべてが、まぶしかった。 (……あんな場所に行けたら、誰かと話せたら……) (誰かと、一緒に笑えたら……) 胸の奥が、ずきんと痛んだ。 それは“恐怖”よりも、ずっと深くて、長く続いている痛み。 ——“孤独”。 飛鳥はそのとき、はっきりと自分の中のそれに気づいた。 「……あたし……ひとり、なんだ……」 風が吹く。 街の方から届いた風には、人の匂いがあった。 パンの香り。焚き火の煙。香草と果物と、土と……生きている匂い。 それは、檻の中でも、森の中でも知らなかった匂いだった。 飛鳥の足が、自然と一歩、前に出る。 「……行きたい……」 それは、誰かに命じられたのではなかった。 本能のような。 けれど、間違いなく“自分の意志”だった。 飛鳥はもう一度、街を見つめた。 (……あたし、あそこに行きたい) 孤独の中で見つけた、小さな灯。 その灯に導かれるように、少女は——街へ向かって歩き出した。 *** 昼の森は、静かにざわめいていた。 飛鳥は高台に戻り、じっと街を見下ろしていた。 視線の先には、人の街。 賑わい、動き、喧騒。 生の匂いが風に混じって届いてくる。 彼女の目は、それをすべて見ていた。 人々の足取り。 門の開閉のタイミング。 行商の荷車の列。 城壁の外に積まれる麻袋、干し草、木箱。 (……あそこ、出入りが多い……) 城壁の裏手、少し高台からは見えにくい位置に、小さな裏門があった。 昼間は開いていて、行商や馬車が頻繁に出入りしている。 飛鳥は翼をたたみ、背を低くし、じっと観察を続けた。 陽が落ちていく。 空の色が赤から群青に変わっていく。 そして——夜が、森を包んだ。 人の気配がまばらになり、街の音がやわらかくなる。 この時間だけが、街が眠りにつく一瞬だった。 飛鳥は風の流れを感じ、足元の草を踏んで進み出す。 「……こわくない、こわくない……ただ、ちょっと行ってみるだけ……」 自分に言い聞かせるように、そっと地面を蹴った。 草の音、虫の羽音、人の話し声—— 全部が翼の先に伝わってくる。 (……右手、見張りの足音。左に回り込めば、気づかれない……) 視界の端で人影をとらえ、無言で方向を変える。 その動きは、もはや風のようだった。 やがて裏門近くの荷馬車置き場に辿り着く。 何台もの馬車が繋がれ、夜を待つように静かに眠っている。 人の目はない。 今しかない。 飛鳥は、草むらから地を這うように抜け出し、 一台の荷車の下に、体を滑り込ませた。 「……よし……よし……」 木の床の裏に、足をひっかけ、翼でバランスを取りながら身体を小さく丸める。 重い箱と干し草の匂い。 すぐ上では馬が鼻を鳴らしている。 ——そして。 車輪が、わずかに揺れた。 「出発……?」 飛鳥は息を殺す。 やがて馬の蹄の音。 車輪が回り出す。 地面が震える。 振動が、翼に伝わってくる。 (——今、街に入ってる) その実感に、心が跳ねた。 けれどそれと同時に、胸の奥で小さな恐怖が芽を出す。 (もし、見つかったら……) 喉が鳴る。 でも、もう後戻りはできない。 馬車はゆっくりと動き、城壁の影に入り、そして街の中へ。 人の声が近づき、石畳の音が羽の先を震わせた。 ——ようこそ、街へ。 数分後、荷車が停まる。 荷をほどく人影が近づく気配。 飛鳥は、すぐにその場を離れた。 視界の隙間を縫うように、建物の裏を抜け、 誰もいない倉庫街の隅へと逃げ込む。 そこは、湿った石壁と木箱が並ぶ静かな空間。 生きものの匂いはなく、ただ土と乾いた草の匂いがした。 ようやく、息を吐いた。 「……入れた……」 声は、かすれたささやき。 心臓がまだ、跳ねるように脈を打っていた。 けれど、その目は—— 少しだけ、光を宿していた。 *** 倉庫街の一角。誰もいない木箱の隙間。 飛鳥は、丸まるようにして身を潜めていた。 冷たい石壁に背を預け、浅く息を吐く。 街に入った。それだけでも、心は浮き立っていた。 けれどこのままでは、人に見つかる。 (……なにか隠せるもの、あれば……) 視線を巡らせると、積まれた麻袋の奥に、それはあった。 粗末だが大きく厚手の、フード付きの外套。 たぶん、誰かが放り投げて忘れたままになっている。 「……これ……」 手ではなく、翼の先を器用に引っ掛けて、そっと引き寄せる。 外套は思ったより重かったが、飛鳥の細い身体をすっぽりと包み込んだ。 フードを深くかぶると、羽根も足も見えない。 ただの、ちょっと背の低い旅人のように見えた。 (……これで、きっと……) 羽が隠れた安心と、街の中にいられるという喜び。 小さく、でも確かな安堵が胸に灯った。 *** 夜の街は、石畳の上に灯がこぼれていた。 橙色のランプが揺れ、通りにはちらほらと人影。 焼きたてのパンの匂い。香草のスープ。遠くで弦楽器の音色。 飛鳥は外套のフードを深くかぶり、下を向いて歩いた。 緊張で足がぎこちない。 でも、それでも——楽しかった。 角を曲がると、露店の老女が声をかけてきた。 「お嬢ちゃん、寒いだろう? お芋あったかいよぉ」 飛鳥は、少し驚いた顔をした。 返事が遅れて、ぎこちなく頷く。 「あ、あの……ありがとう……」 それだけ。 ただそれだけの会話だった。 けれど、心が——ぐん、と高く跳ねた。 (……喋れた……) 言葉が届いた。 相手は、笑ってくれた。 嬉しい。胸が熱い。 さっきまでの冷えた石壁が、遠く感じる。 そのまま通りを進むと、にぎやかな音が響いてきた。 弦楽器。笑い声。グラスの音。 ひときわ明るい建物の前に、灯がにじんでいる。 「……あれ……?」 扉の上には、月と星を描いた看板。 酒場だ。 木枠の窓から、黄色い光がもれていた。 中には人がいて、笑っていて、手を叩き、歌っている。 飛鳥は、引き寄せられるように扉を押した。 中は、思ったよりも温かかった。 酒の匂い。パンの香り。 焚き火の音。楽器の旋律。 飛鳥はそっと、隅の席に身を滑らせた。 人目につかぬよう、フードを深くかぶったまま。 誰も気に留めない。 誰も、彼女を“異物”とは見ていなかった。 「……すごい……」 まるで、夢みたいだった。 人の中にいる。 同じ空気を吸っている。 笑い声のある世界の中に、自分がいる。 胸が、どくどくと脈打った。 これが、ずっと欲しかった景色なのかもしれない。 ——しかし。 酒場の扉が、ばたん、と開いた。 「おーい! こっちだ、もう一杯行こうぜ!」 あの声。 あの笑い方。 昨日、森で自分に矢を放った——狩人たちだった。 飛鳥は、凍りついた。 (……どうしよう……!) 彼らがこちらを見たわけではない。 ただ、酒を手にして陽気に騒ぎながら、カウンターに向かっていく。 けれど飛鳥の中では、あの日の記憶が一気に蘇る。 冷たい視線。引かれる弓。自分に向けられた「化け物」という言葉。 「……っ……!」 飛鳥は立ち上がろうとした。 逃げなきゃ、ここを出なきゃ——! しかし。 足が、動かない。 恐怖で固まった脚が、地面に縫い付けられたようだった。 一歩、逃げようとした瞬間。 固まった脚が、椅子の脚にひっかかる。 そして、慌てて動かした羽根が、外套の裾を巻き込んだ。 「うっ……!」 ばさっ——! 床に崩れる音と同時に、羽根が一瞬、灯りの下に覗いた。 静寂。 近くにいた誰かが、振り返る。 「……ん? 今の……?」 狩人のひとりが、酒を持ったまま、眉をひそめる。 (——見られた!?) 飛鳥の心が、止まった。 つづく |
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iコード | i962744 | 掲載日 | 2025年 05月 10日 (土) 19時 35分 03秒 | ||
ジャンル | 写真 | 形式 | JPG | 画像サイズ | 2160×3840 |
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