投稿日時 2025-05-30 21:34:41 投稿者 ![]() 矢崎 那央 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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森の奥。湿った空気が、静かに辺りを包んでいた。 飛鳥(あすか)——半人半鳥の小柄な少女は、二人の背中を追いかけていた。 翼をたたみ、尖った鳥の脚で、腐葉土をそっと踏みしめながら。 前を行くのは、紫がかった髪を乱した少女——ロメラ。 肩にかけたギターを、縫い目の走る腕で背負い直すと、先頭を行く巫女装束の少女に声をかける。 「Damn, sloggin’ through this swamp sucks hard. (おいおい、足元ぐしゃぐしゃでクッソだりぃわ……) なぁ、オメーがよくやる ‘Whip up one o’ them flashy-ass tornados’(ド派手な竜巻き起こすやつ)、でパパッと飛んでったりできねーの?」 巫女装束の少女——九重(ここのえ)は、狐面の下からロメラを一瞥し、扇子を優雅にあおぎながら答えた。 「そこの腐りん坊は、根性の足らん子やなぁ。 うちはアンタの人足でも馬車馬でもあらしまへんえ? 腐りん坊の身体はすぐ硬うなるんや。あんじょう歩きよし」 「Well, well. Now shove it, the sweetest lil’ Velvixen. (へいへい、わかったよ。お優しいお上品狐さん)」 九重はふっと口元だけで笑い、扇子を軽やかに一振り。 「お褒めにあずかり、光栄どすなぁ」 「Yeah, whatever.(どーでもいーよ)」 その軽口の応酬を、飛鳥はきょとんと見つめていた。 ぎゅっと翼を縮め、小さく首をかしげる。 (……仲、いいのかな) *** やがて、森の奥にぽっかりと空間が開けた。 古びた石のアーチと、崩れかけた木枠の骨組み。 かつては植物園の温室だったらしい建物は、ガラスの大半を失いながらも、苔に覆われて静かに息づいていた。 「ほな、中、入りましょか?」 九重が扉を押し開ける。ぎぃ……という長い軋みが、静寂を割った。 「……うんっ」 飛鳥は足の指でもぞもぞと土をなぞり、小さく頷いて、歩を踏み出す。 中は、やわらかな熱に包まれていた。 崩れた天井の隙間から差し込む光が、緑の葉にこぼれている。 花々は静かに咲き誇り、まるで誰かの手で丹念に整えられたように、生き生きと並んでいた。 廃墟とは思えない。 いや、廃墟だからこそ際立つ、静かな奇跡のような空間。 飛鳥はそっと足を踏み入れながら、翼をふるりと震わせた。 (……すごい) 視線が自然と巡る。 割れた石畳の隙間から芽吹く草、壁を這う蔓、陽に透ける花びら。 どれもが、生きていた。 どこかに、人の手が加わったような気配さえあった。 やがて、その視線が、ゆっくりと中央へと移っていく。 そして——飛鳥は、小さく息をのんだ。 (……人?) そこに「いる」というより、溶け込んでいた。 まるで最初から、その庭の一部であったかのように。 温室の中央。 ひとりの少女が、鉢植えの中で瞳を閉じて座っていた。 緑がかった髪が、肩にふわりと流れている。 質素な布に包まれた体は、どこか温かく、やわらかな曲線を描いていた。 だが—— 足は、膝のあたりから木の根へと変わっていた。 鉢の中で、静かに、確かに根を張っている。 それは明らかに、人間のそれではなかった。 しかし、そう、それはまるで、土に咲いた、ひとりの花。 「……妖精、みたい……」 飛鳥の口から、思わず言葉がこぼれた。 ロメラがギターを引っかけたまま、近くの石にドガッと腰を下ろし、顎をしゃくる。 「Yo, wake up, Twiggly(クネク根っ娘(こ))!」 その声に、花の少女が、ふわぁっとまばたきした。 長い睫毛が影を落とし、とろけるように眠たげな琥珀色の瞳が、やんわりと飛鳥たちをとらえる。 少女はそっと微笑んだ。 「こんにちはぁ……。お客様ぁ……?」 のんびりとした声。寝起きのとろけた表情。 温室に満ちていた静けさが、その声に包まれ、春の朝のようなぬくもりを帯びていく。 飛鳥は、ぎゅっと翼を胸元に引き寄せた。 ロメラが腕を組み、ぽつりと呟く。 「おいおい、ホストがぽやぽやの寝ぼけ顔だと様にならねぇな」 だが少女は、怒るでも照れるでもなく、ぽやりと微笑んだ。 「あぁ、ロメラちゃん……おはようぅ……また、お花の苗、持ってきてくれたんですかぁ?」 「いや、今日は違うんだよ。こっちの、かわいこちゃんを連れてきた」 ロメラの言葉に、少女はまるで蕾が開くように、ゆっくりとしたまなざしで飛鳥を見た。 「初めまして。あ……あたし、飛鳥……って言います」 自分の名前を告げながら、そっと翼をすぼめ、足を隠すように引く。 自分の姿が“普通”じゃないことが、どうしても気になってしまう。 少女はふわぁっとまばたきをして、手のひらを胸に当てた。 「飛鳥さん、ですかぁ。……とっても、きれいなお名前ですねぇ」 とろけるように微笑んで、ゆっくりと身を起こし、ぺこりとお辞儀する。 「わたしは……フィロレーナ、って呼ばれてますぅ。 でも、長いですからぁ——“フィーちゃん”って、呼んでください」 その声音は、まるで風に乗って花がほころぶようだった。 飛鳥の顔が、ぱちぱちと瞬きで染まる。 「フィ、フィーちゃん……?」 幻想的な印象とは裏腹の可愛い響きに、少しだけ戸惑う。 でも、心の中で呼んでみると、彼女のふんわりした雰囲気には、きっとよく似合っていた。 「お客様はぁ……旅の途中、ですかぁ?」 彼女——フィーちゃんが、とろんとした目でたずねてくる。 飛鳥は、ぎこちなくうなずいた。 「うん……あたし、自分が何者か、知りたくて。 それで、旅をしてるの」 「ふぇぇ……」 ふわふわしたまま、感心したように小さく息を吐くフィーちゃん。 「すてきですねぇ……風に乗って、どこまでも。 わたしも、そんな旅に、あこがれちゃいますぅ」 「You wouldn’t last a day out there, Twiggly(クネク根っ娘じゃ一日も持たねぇな)」 ロメラがギターをつま弾きながら、ニヤリと笑う。 フィロレーナはくすりと笑って、花のように首をかしげた。 *** 「ふぁ……そろそろ、いつもの時間ですねぇ。 ちょっとだけ……お花の、お世話、してもいいですかぁ?」 誰も反対はせず、空気が自然と彼女に道をあける。 鉢植えから立ち上がったフィロレーナの腰からは、木の根が土にやさしく絡みついていた。 根が動くたびに、小さな軋む音が響き、地面に咲く葉がふるふると揺れる。 ゆっくりと歩を進めるたび、肩から背にかけて流れるミントグリーンの髪が、日差しを受けて淡く透けた。 たおやかな髪越しに、白くなめらかな肌がちらちらと覗く。 しゃがんだ瞬間、背中のあたりから小さな葉がひょっこりと顔を出した。 うなじのやわらかな曲線に沿って生えたその緑は、彼女の身体の一部として、そこに生えていた。 フィロの装いは、一見すると質素なワンピースのよう。 だがよく見ると、それは服ではなかった。 身体から生えた蔦がふんわりと絡まり合い、彼女の柔らかなラインに沿って自然に編まれている。 その隙間から瑞々しい肌がちらりと覗き、動くたびに“着ている”というより“咲いている”という印象を与えた。 彼女が高い位置の蔓に手を伸ばした瞬間—— 胸もとを包んでいた蔦がゆるくほどけ、蔦のすき間からこぼれるよう覗く、ふんわりとやわらかなふくらみが、ふわりと揺れた。 指先には、瑞々しく艶やかな蔓が絡んでいた。 それが鉢の縁に触れたとたん、ぴくんと芽が震え、葉がふわりと開いた。 飛鳥は思わず息をのむように見とれて、そっと腰を下ろし、翼を膝に抱え込んだ。 人間とは明らかに異なるその姿。 けれど、それは—— (……なんだか、きれい……) その“きれい”には、花の色でも、葉の艶でもない、 フィロレーナ自身の、やわらかく穏やかな所作が含まれていた。 飛鳥の視線は、自分の翼へと落ちる。 羽で覆われた腕。器用に動かせない、指のない手。 「……あたしも、手伝ってみたい……けど…… ……あたしの腕、こんなだから……」 そうつぶやくと、フィーちゃんが優しい瞳でこちらを見る。 「だいじょうぶですよぉ。……わたしが、そっと……支えますからぁ」 フィーちゃんが、飛鳥の翼に手を添えて、肩を抱えるようにそっと腰を下ろした。 ぽふ、と。 ふわふわの胸が、ふいに飛鳥の肩に触れる。 それは、やさしく弾むようでいて、押し返すこともなく、しずかに沈み込んでくる。 蜜を含んだ花びらをそっと包み込んだような、形よりも温もりの伝わる感触だった。 飛鳥の頬が、ふっと熱を持つ。 フィーちゃんは、それに気づいた様子もなく、 指に巻いた蔓で、そっと飛鳥の翼に触れた。 「……ね? ふたりでやれば、大丈夫ですぅ」 飛鳥は、こくりと頷いた。 そして、翼の先で、おそるおそる花の茎をなぞる。 そばで、フィーちゃんがやさしく笑っていた。 土の匂いと、陽だまりのぬくもり。 ふたりの影が、花のあいだにそっと重なっていた。 ——異形の鳥と、花の化身。 けれど、そこにあったのは、たしかな安らぎだった。 *** 陽が傾きはじめた温室の中。 光を失いつつあるガラス天井から、柔らかな陰影が差し込んでいた。 木の葉と蔓草で編まれた素朴なテーブルの上に、小さな皿がいくつも並べられている。 皿といっても、葉を束ねたものや、大きな木の実をくり抜いた即席の器、その上には—— 「……これ、ぜんぶ、フィーちゃんが?」 飛鳥が目をぱちぱちと瞬かせ、驚き混じりに訊ねる。 「ええ、全部、わたしのお世話してる畑と果樹園からぁ…… それと、小麦粉とかお塩とかはぁ、いつもロメラちゃんが持ってきてくれるんですぅ」 フィロレーナは少し申し訳なさそうに笑いながら、両手を胸元で揃えた。 「わたし、自分では食べられないのでぇ…… お味の保証ができないのが、残念なんですけどぉ」 皿の上には、花びらの和え物、香草のスープ、蒸した根菜。 どれも見た目は素朴だが、ほのかな香りが心をふっと和らげてくれるようだった。 「見た目はまぁ……Not half badってとこだが」 ロメラが片手で、料理のひとつを手に取る。 「こいつの料理の腕は、オレが保証するぜ。Pretty damn good!」 「ロメラちゃんが喜んでくれるからぁ…… たくさん練習したんですぅ」 ふわりと微笑むフィロレーナの声は、まるで花の香りを含んでいるかのようだった。 「ま、もう“食う”こと自体に意味はねぇ身体だけどな。 でも、味はわかるし、うまいもんは、やっぱうまい」 ロメラはビーガンブリトーをかじりながら、肩をすくめて笑った。 「うまい飯を食う楽しみは、"死んでも"捨てられねぇさ」 そう言って、飛鳥に向かって片目をパチリと閉じた。 九重は、静かに扇子をたたみながら焚き火の光の中、飛鳥に優しく視線を向ける。 「あの夜の街で食べて以来、飛鳥は、まともな食事をとれてへんかったもんなぁ。 あったかいご飯、用意してくれて——レーナ、ほんまに、おおきに」 その声は、まるで風のように優しくて、どこか申し訳なさそうだった。 フィロレーナは胸の前で組んでいた手をふわりと解いて、首を横に振った。 「そんなことないですよぉ……わたしも、こうして皆んなに食べて貰って、すごく楽しいです……」 飛鳥は、羽根で器を落とさないようにそっと抱え、スープを口元に運ぶ。 ——ふわりと、香草のかおり。 やさしい塩味と、ほんのり甘い根菜のうまみが、口いっぱいに広がった。 (……おいしい……) 思わず目を見開いた飛鳥は、ぱちぱちと瞬きをして、フィロレーナの方を向いた。 「フィーちゃん! これ、すごく美味しいよっ」 フィロレーナは、ぱっと顔を明るくして、蔓の絡まる両腕を胸の前でそろえる。 「ほんとうですかぁ……? よかっ……っ——」 けれど、言葉の途中で、ぴたりと止まった。 表情がふいに曇る。 「と、どうしたんですか!? 飛鳥ちゃん!?」 ロメラも、手にしていたブリトーを置いて、身を乗り出した。 「どうしたハッチー! どっか痛ぇのか!?」 九重も、扇子を閉じたまま、心配そうに身を寄せる。 「いったい、どないしはったん……?」 飛鳥は、なぜみんなが心配しているのかわからず、きょとんとしたまま、ぱちぱちと目を瞬かせた。 (……?) ふと、頬に伝うものに気づいて、そっと羽根を伸ばす。 「あれ……?」 そこには、温かな涙が流れていた。 (なんで……) 自分でも理由がわからなかった。 けれど、思い出したのは、あの夜のこと。 街へ忍び込んで見た、あの景色。 ——酒場のすみっこで、外套に身を包んで眺めていた光景。 明るい灯りの下、笑い合いながら食卓を囲む人々。 その様子を、同じ空間で眺めているだけで、胸が弾んだ。 ただ近くにいるだけで、心があたたかくなった。 でも、今は、あたしはその輪の中にいる。 笑って、言葉を交わして、同じものを口にして—— 「ご、ごめんなさい……っ、へんな泣き方して……」 飛鳥はあわてて翼で顔を隠そうとした。 けれど羽根ではうまく涙をぬぐえず、かえってしょぼしょぼになってしまった。 「ち、ちがうの……おいしいの……すごく……っ」 「でも、なんか…… こんなふうに、誰かと一緒にごはんを食べて…… 笑ってる自分が、ここにいるのが……すごく、すごく嬉しくて……っ」 誰も、すぐには言葉を返さなかった。 ただ、焚き火の灯と、草花のかおりに包まれながら、 その涙を、静かに見守っていた。 フィロレーナが、指に巻いた蔓をそっと伸ばす。 それが飛鳥の手にふわりと触れた。 「……わたしも、嬉しいですぅ…… 飛鳥ちゃんが、ここにいてくれて……」 飛鳥は、小さくうなずいた。 そして、もういちど、今度は笑みをたたえながら、少しだけ泣いた。 *** 食後の空気は、ほんのり甘かった。 葉っぱで編まれた皿の上には、色とりどりの野菜の残り。 大きな木の実を割って作られた器のふちには、スープの跡がほのかに残っている。 静かな時間のなか—— フィロは、ひとり、花のあいだを歩いていた。 飛鳥も、なんとなくそのあとをついていく。 足音は葉に吸いこまれ、ただ、草のかおりだけがふたりのあいだに流れていた。 やがて、フィロが立ち止まった。 しゃがんで、小さな白い蕾の鉢にそっと手を添える。 下半身の丸みがやわらかく浮かび、蔦で編まれたドレスが隙間をつくって、瑞々しい肌をわずかに透かしていた。 「……これ、わたしのいちばん古い“子(こ)”ですぅ」 「“子”……?」 「……わたしが、いちばん最初に植えられたとき、 この子も、いっしょに生まれたんですぅ」 飛鳥はそっと近づき、羽を揃える。 その様子を見て、フィロはほわりと微笑んだ。 「……わたし、もともとはぁ……誰かの夢を叶えるためにぃ……作られたんですぅ」 淡いミントグリーンの髪が、夜風にゆれる。 その横顔には、さみしさも、怒りもなかった。 ただ、静かに—— どこか遠くの夢を、今も見ているようなまなざしで。 「むかしぃ、わたしを植えた人がぁ……言ったんですぅ。 『君は私の願いを叶える花になる』ってぇ」 「……でも、その人は、もう来ませんでしたぁ。 わたしは、ずっと……待って、待ってぇ……」 飛鳥は、言葉が出なかった。 胸の奥が、きゅっと、小さく縮む。 「それでぇ、思ったんですぅ。 もう、誰かのためじゃなくてぇ。 わたしは、わたしのために、咲いていたいなぁ……って」 優しく、ふわぁっと笑う。 それは、 どこまでも儚くて、 どこまでも強い、命の笑みだった。 飛鳥は、小さくうなずいた。 「……うん、いいと思う。フィーちゃん……すごく、きれいだよ」 「えへぇ……ありがとうございますぅ」 フィロレーナは、小さな花を両手で包みながら、 ぽわんと微笑んでいた。 ふたりのあいだを、夜の風が通り抜けていく。 草の葉がささやくように揺れ、まるで庭そのものが祝福しているかのようだった。 *** 温室の隅。崩れた棚の上に腰かけたロメラが、ギターのヘッドを軽くつま弾いていた。 指先で弦を揺らしながら、その視線は静かに先を見つめている。 花に囲まれながら並ぶ、小さなふたつの背中。 異形の鳥と、根を張る少女。 その光景に目を細めながら、ロメラはぽつりと呟いた。 「She’s one of us, ain’t she, Velvixen? (なあ九重、やっぱりハッチーも、オレたちと同じだろ?)」 九重は、視線をそのまま飛鳥に向けたまま、扇子で頬をそっとあおいだ。 「Perchance. But truth be told, I do not yet know why she was made. (たぶん、せやろなぁ。せやけど、実のところ彼女が何のために産まれたのかは、ウチにもわかりまへんの)」 「Tch. Figures. (ちっ、そんなこったろうと思ったぜ)」 ロメラはギターを抱えるようにして、ほんの少し苦笑した。 「So what do we tell her? (オレたちのこと、どれくらい彼女に教えてる?)」 「Not a word. Words won’t help her understand. She needs to find it herself. (うちからは何も。言葉で説明しても意味はない。彼女自身が、自分で答えを見つけななりまへん)」 「You would say that, you meddlesome fox… Still, I agree. (まったく、お節介な狐は相変わらずまわりくどい。……まぁ、でも同意見だ)」 九重は、それを肯定するように目元をふわりと和ませた。 ふと気づけば—— 飛鳥が、ふたりを不安そうに見ていた。 聞き慣れない言葉のやりとりに戸惑ったのだろう。 翼を胸に小さく抱えて、そわそわと足の指をもじもじさせている。 その様子に気づいた九重が、ひとつ扇子をたたむと、やさしく微笑んで、片目をすっと瞑った。 ただ、それだけ。 でも、飛鳥は一拍おいて、ぱちぱちと瞬きをして—— そっと肩の力を抜くと、また静かにフィロの手伝いに戻っていった。 土の入った鉢のふちを指でなぞりながら、小さく「よいしょ」と呟いたその声が、どこか安心しきった響きを帯びていた。 その背中を見守りながら、ロメラは小さく呟いた。 「You walk, you live. (歩きゃ、生きてんだ)」 「She’s doin’ just fine. (アイツは、ちゃんと行けるさ)」 そして温室には、またゆっくりと静寂が満ちていった。 *** 空がまだ、淡い紫に染まりはじめたころ。 温室の外縁、崩れかけた柵のそばでは、朝露が静かに光っていた。 フィロレーナは、丸くなって眠る飛鳥のそばにしゃがみ込んでいた。 翼を抱くように身を縮めて眠るその姿に、そっと、柔らかな布をかける。 それは、蔦と綿毛で編まれた、夜露除けのひとえ。 指に巻かれた蔦が布の端を器用に折り返し、優しく整えていく。 「……風邪、ひいちゃいますよぉ……」 囁くような声。 その微笑みは、まるで花のつぼみが朝日にゆるむようだった。 少し離れた場所では、ロメラがギターを膝にのせ、弦を張りなおしている。 指先が軽やかに動きながらも、たびたび遠くの空を見上げていた。 「陽が昇りゃ、道も開く……Time to roll again(また旅の時間だ)」 その横で、九重が扇子を閉じたまま、フィロのもとへと静かに歩み寄る。 声を潜めるでもなく、ごく自然に隣り合った。 「……名残惜しゅおすなぁ、レーナ」 九重の声は、夜明けの風のように淡く、どこか切なげだった。 「えへぇ……でも、根を張る子は、待つのも、お役目ですからぁ」 フィロはそう言って微笑んだが、目元にはわずかな寂しさがにじんでいた。 「……あの子は、きっと、これからまだ、たくさんの花を見つけていくんでしょうねぇ」 「せやけど、それは全部……自分で見つけな、意味がおまへん」 「はいぃ。だから……この場所は、変わらずに咲き続けますぅ。 あの子がまた、迷ったときに、思い出せるように……」 そして—— 「……ん……」 羽が、もぞりと動いた。 飛鳥が、ゆっくりと目を開ける。 肩にかけられた布に気づき、少し戸惑ったようにそれを握りしめた。 「……もう、朝……?」 「ええ。まだ少し早いけどぉ……でも、朝は来ますからぁ」 フィロの声に、飛鳥はまばたきをひとつ。 そして、小さく息を吐いてつぶやいた。 「……行かないと、ね」 飛鳥は立ち上がると、少しだけ布を抱きしめるようにして、フィロのほうを振り返る。 「フィーちゃん……ありがとう。あたし、ほんとに……うれしかった……」 フィロレーナは、とろんとした目元のまま、やわらかく微笑んだ。 「また、来てくださいねぇ。 わたし……ずっと、ここで、咲いてますからぁ」 「うん……ぜったい、来る」 きっぱりと言いきった飛鳥に、ロメラが「よっしゃ!」と肩を叩き、九重が静かに扇子を広げる。 朝の空に、旅立ちの風がそっと吹いた。 蔦に包まれた温室の中。 ひとり、そこに咲き続ける少女が—— 淡い光に包まれながら、静かに、そしてやさしく見送っていた。 (ありがとう、フィーちゃん) (あたし、がんばるよ) ——そして、風はまた、ひとつの出会いを運ぶ。 次なる舞台は、遠い昔に閉ざされた洋館。 そこに棲まうのは、孤独に囚われた、幼き“器”の少女—— ——つづく |
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