投稿日時 2025-05-23 18:40:05 投稿者 ![]() 矢崎 那央 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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風が吹いていた。 夜明け前の森は、まだ深く、冷たく、静かだった。 誰の足跡もない獣道の奥。 朝の光が届く前の空気に、一枚の羽がふわりと舞っていた。 その羽は、青緑にきらめき、 森の葉を撫で、地に落ちることなく漂い続けていた。 それを追うように、少女が歩いていた。 黒髪を一つに束ねた少女。 その肘から先は、鮮やかな羽。 その膝下には、細く鋭い鳥の脚。 彼女の名は——飛鳥—— (……会いたい) 心の奥に、まだ消えきらない想いが残っていた。 別れた少年。 優しく微笑んでくれた手。 風のように過ぎた、短く、あたたかな日々。 でも今は、その想いすら——歩くための力になっていた。 (あたしは、知らなきゃいけない) (どうして、こんな姿なのか。いったい何者なのか) (……あたしは、人間になれるのか。 それとも——) 「ねぇ、九重……あたしみたいな子、ほかにもいるの?」 森の小道を歩きながら、飛鳥はうつむいて訊いた。 九重と呼ばれた少女——背の高い、巫女装束に狐面の姿。 彼女は一歩、二歩と静かに進み、 面越しにやわらかく答えた。 「……たしかに、似たような子はおるえ」 飛鳥が顔を上げる。 「ほんとに? 羽があったり、クチバシが……」 九重はふっと肩を揺らした。 「ふふ、せやけどな。 似とるゆうても、見た目やのうて……“心”や」 「異形ゆえに傷ついた子。 それでも、自分の生き方を探しとる子——そんな子が、な」 飛鳥は黙ったまま、足元の葉をそっと足先で動かした。 「……会ってみたいな」 「会えるとは限らへん。けどな、風は“出会い”も運ぶさかい」 九重の声は、少しだけ遠くを見つめるような響きだった。 どこへ向かうのかは、まだわからない。 でも、歩くことはできる。 羽はまだ重い。けれど、心はあの頃より、ずっと自由だった。 風が吹く。 新しい出会いの気配を連れて。 その先に待っているもの—— それは—— 「死者の眠る寝床の上。死を乗り越えてなお、明るく笑う少女」 それは—— 「忘れられた花園。嫋やかに眠る、柔らかく優しい花の精」 それは—— 「霧の立つ沈黙の湖。置き去りにされた悲しみを湛えながら、水に宿る魂」 飛鳥の旅が、ここから“ほんとう”に始まる。 それは—— 風が、自分の名を見つけるための旅。 そしてそれは—— 風が、風に還るための物語。 ——第一部・完—— |
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