投稿日時 2025-05-10 22:51:31 投稿者 ![]() 矢崎 那央 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
投稿者コメント | |
朝が、街をゆっくりと目覚めさせていく。 陽の光が屋根を撫で、通りにパンの焼ける香りが漂い始める。 子供たちが走り、商人が店を開き、鳥が飛ぶ。 飛鳥は、大きな外套のフードをかぶったまま、 通りの端を、そろそろと歩いていた。 誰にも見られぬよう、目立たぬよう。 でも——昨日より一歩、深く街に踏み込んで。 ふと、路地の影に、しゃがんだ少年がいた。 スケッチブックを広げ、何かを一心に描いている。 栗色の髪。白いシャツに、擦り切れたベスト。 年は飛鳥より二つか三つほど下だろうか。 細く、影のある瞳。けれど、その目だけは真っ直ぐだった。 飛鳥が通り過ぎようとした、そのとき。 少年が顔を上げ、目が合った。 「あ……」 少年はふっと目を見開き、すぐに何かに気づいたような顔をした。 「……君、昨日の……」 「……え?」 「……いや、ごめん。なんでもない」 慌てて目を逸らす。けれど、その視線の先にあったスケッチブックには、 昨夜の街角を歩く、外套姿の小柄な少女が——風と共に描かれていた。 飛鳥は絵を一瞬だけ見て、自分だとは気づかなかった。 けれど、少年の目を見たとき、胸の奥が、かすかにざわついた。 「……なに描いてたの?」 そう問いかけようとして、けれど言葉は出ず、 代わりに、フードの奥でそっと微笑んだ。 出会いは、小さな風のように、静かに始まった。 *** 翌日、朝の陽が高く昇る頃。 飛鳥は、街を離れて森の奥へと戻っていた。 行き先は決めていたわけではない。 けれど、足は自然と、湖へと向かっていた。 木々の隙間をすり抜け、光の射す方へ。 やがて、小さな湖にたどり着く。 森の静けさに包まれた湖畔。 水面は鏡のように空を映し、風が吹けば、羽を撫でていく。 「……ふふ……すごかったな、街……」 夜の灯り、にぎやかな声、歌、笑い、香ばしい匂い。 どれもが、まだ身体に残っている気がして、胸が跳ねた。 「……怖かったけど、でも……」 そっと腰を下ろし、背筋を伸ばし、膝を折り、翼を畳む。 鳥の脚が、湿った土の感触を伝えてくる。 「……街、楽しかったな……」 小さく呟いた声が、水面に溶けた。 誰かと喋って、笑って、音楽を聞いて。 怖かったけど、それ以上に、心がずっと踊っていた。 自分が誰なのか、どこから来たのか——そんなことは思い出せなかった。 けれど、あの夜の灯りの中では、自分が「ここに居ていい」と思えた。 「……もう一回、行けるかな……?」 そう呟いたとき。 足音がした。 飛鳥は、はっとして振り向く。 そして、息を呑む。 そこに立っていたのは—— 昨日の少年。 「……!」 一瞬で、胸が跳ねた。 けれどそれ以上に、恐怖が追いついてきた。 ——あたし、いま……外套、着てない。 翼も、脚も、全部、見える。 (見られた……!) 「やだ……やだやだ……っ!」 立ち上がると同時に、飛鳥は背を向けて駆け出した。 土が跳ね、水が飛ぶ。羽が揺れ、枝が擦れる。 けれど—— 「待って!」 少年の声が飛んだ。 澄んだ、まっすぐな声だった。 「逃げなくていい!」 飛鳥は立ち止まれなかった。 足が勝手に動いた。 けれど、その声は、追いかけてくるわけでもなかった。 ただ、もう一度だけ。 「——君、綺麗だよ!」 その言葉が、背中に突き刺さった。 風が止まったように、足が止まった。 (……え?) 何も考えられなかった。 ただ、自分の心臓の音だけが、身体の奥に響いていた。 (……いま、なんて……) 飛鳥は、ふらりと足元を見た。 脚は黄色く、鱗に覆われ、鋭い爪がついている。 肘から先は、大きな羽根。 “人間”とは遠い姿。 それでも。 (……綺麗……って……) その言葉は、誰にももらったことがなかった。 心臓は、ずっと跳ねたままだった。 喉が乾いて、言葉も出なかった。 けれど、少年の声はそれ以上、何も追ってこなかった。 ただ、そこに立っている気配だけが、静かに残っている。 飛鳥は、そっと振り返った。 ゆっくりと。 おそるおそる。 逃げるようにじゃなく、“見る”ように。 そこにいたのは—— 昨日、街で出会ったあの少年だった。 絵を描いていた、少し幼くて、まっすぐな目をした男の子。 「……きれい、って……なにが?」 飛鳥は、震える声でそう問いかけた。 翼を隠すことも忘れていた。 少年は、一歩だけ前に出た。 でも、それ以上は近づかず、静かに言う。 「……羽。光の中で、風に揺れて…… なんていうか……すごく綺麗だった」 飛鳥は、黙ったまま翼を見下ろす。 肘から伸びた大きな羽根。 青緑の光沢が、水辺の反射で揺れていた。 ずっと…… ずっと、隠さなきゃって思ってた。 気味悪がられるって思ってた。 でも、この子は—— 「……こわく、ないの?」 ようやく出たその問いに、少年は、首を横に振った。 「こわくないよ。 ……だって、君は僕のこと、傷つけようとしてないでしょ?」 「……」 「“人間じゃない”とか、そんなの、僕にはよくわからない。 でも、君のこと……もっと見たいって、思ったんだ」 飛鳥は、なにも言えなかった。 ただ、胸の奥がきゅっと熱くなった。 「……名前、教えて貰ってもいい?」 少年の問いに、飛鳥は、少しだけ戸惑いながら—— それでも、はっきりと、答えた。 「……飛鳥」 「飛鳥……うん、ぴったりだね」 少年は、にこっと笑った。 その笑顔が、まるで森の光みたいで。 飛鳥は思わず、視線を落としてしまった。 「……君は?」 飛鳥が、小さく尋ねる。 「ティロ。……僕の名前」 「……ティロ……」 その名が、羽に乗って風に消えた。 ——たったひとつの名前。 それだけで、少しだけ世界が変わった気がした。 つづく |
||
最大化 | アクセス解析 | ユーザ情報 ![]() |
▽この画像のトラックバックURL▽(トラックバックについて) |