君は、風に還る 第六章:空の眼、街のざわめき お気に入り画像登録
君は、風に還る 第六章:空の眼、街のざわめき

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投稿日時
2025-05-10 19:20:16

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矢崎 那央

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投稿者コメント
朝露が葉を濡らし、光の粒が草の上を転がる。

鳥たちはすでに目を覚まし、森の上にさえずりが満ちていた。

昨日と同じ森。けれど今日は、木漏れ日も風の匂いも、どこか鈍く感じられた。

飛鳥は、眠っていた倒木から立ち上がり、森を歩いていた。

ひと晩を超え、身体は、少しずつ地面の感触に慣れはじめていた。
しかし、依然としてまだ羽は重い。足元はおぼつかない。

——そして、心は重く、締め付けられる様に上手く動かない。

しばらく歩くと、森の木々が開けて、陽の当たる高台に出た。

飛鳥は、そこで足を止めた。
風が吹き抜ける。
草がなびき、目の前に、広がる景色があった。

「……あれ……」

思わず、呟く。

遠くに、街があった。

石造りの壁に囲まれた集落。
高い建物、煙の上がる屋根、通りを行き交う人々の群れ。
荷車、旗、商人、子供、犬、馬。

そこは、命のざわめきに満ちていた。

——そして、飛鳥は気づく。

「……すごい……見える……」

遠く離れているはずのその街の、
歩く人の顔の表情、揺れる髪、地面の砂埃まで——

すべてが、目に飛び込んでくる。
まるで、すぐそばにいるかのように。

「……あたし、こんなに目、良かったっけ……?」

知らない自分に驚いた。
そして、少し——怖くなった。

(こんなの、人間じゃない……)

視力だけじゃない。
羽も、脚も、感覚も。
全部、自分の知っている“女の子”とは違う。

昨日の狩人たちの目が、また脳裏に蘇る。
「化け物だ」「狩るしかない」と、あの冷たい声と矢の音。

(……近づいたら、また殺されるかもしれない)

そう思った。
街は賑やかで、にぎわっていて、そして——怖かった。

けれど。

「……いいな……」

小さく、こぼれるような声。

人が笑っている。
商人が荷を運び、子供が追いかけっこをしている。
誰かが手を振り、誰かが歌っている。

そのすべてが、まぶしかった。

(……あんな場所に行けたら、誰かと話せたら……)

(誰かと、一緒に笑えたら……)

胸の奥が、ずきんと痛んだ。

それは“恐怖”よりも、ずっと深くて、長く続いている痛み。

——“孤独”。

飛鳥はそのとき、はっきりと自分の中のそれに気づいた。

「……あたし……ひとり、なんだ……」

風が吹く。
街の方から届いた風には、人の匂いがあった。
パンの香り。焚き火の煙。香草と果物と、土と……生きている匂い。

それは、檻の中でも、森の中でも知らなかった匂いだった。

飛鳥の足が、自然と一歩、前に出る。

「……行きたい……」

それは、誰かに命じられたのではなかった。
本能のような。
けれど、間違いなく“自分の意志”だった。

飛鳥はもう一度、街を見つめた。

(……あたし、あそこに行きたい)

孤独の中で見つけた、小さな灯。
その灯に導かれるように、少女は——街へ向かって歩き出した。

***

昼の森は、静かにざわめいていた。

飛鳥は高台に戻り、じっと街を見下ろしていた。
視線の先には、人の街。
賑わい、動き、喧騒。
生の匂いが風に混じって届いてくる。

彼女の目は、それをすべて見ていた。
人々の足取り。
門の開閉のタイミング。
行商の荷車の列。
城壁の外に積まれる麻袋、干し草、木箱。

(……あそこ、出入りが多い……)

城壁の裏手、少し高台からは見えにくい位置に、小さな裏門があった。
昼間は開いていて、行商や馬車が頻繁に出入りしている。

飛鳥は翼をたたみ、背を低くし、じっと観察を続けた。
陽が落ちていく。
空の色が赤から群青に変わっていく。

そして——夜が、森を包んだ。

人の気配がまばらになり、街の音がやわらかくなる。
この時間だけが、街が眠りにつく一瞬だった。

飛鳥は風の流れを感じ、足元の草を踏んで進み出す。

「……こわくない、こわくない……ただ、ちょっと行ってみるだけ……」

自分に言い聞かせるように、そっと地面を蹴った。
草の音、虫の羽音、人の話し声——
全部が翼の先に伝わってくる。

(……右手、見張りの足音。左に回り込めば、気づかれない……)

視界の端で人影をとらえ、無言で方向を変える。
その動きは、もはや風のようだった。

やがて裏門近くの荷馬車置き場に辿り着く。

何台もの馬車が繋がれ、夜を待つように静かに眠っている。
人の目はない。
今しかない。

飛鳥は、草むらから地を這うように抜け出し、
一台の荷車の下に、体を滑り込ませた。

「……よし……よし……」

木の床の裏に、足をひっかけ、翼でバランスを取りながら身体を小さく丸める。
重い箱と干し草の匂い。
すぐ上では馬が鼻を鳴らしている。

——そして。

車輪が、わずかに揺れた。

「出発……?」

飛鳥は息を殺す。
やがて馬の蹄の音。
車輪が回り出す。

地面が震える。
振動が、翼に伝わってくる。

(——今、街に入ってる)

その実感に、心が跳ねた。
けれどそれと同時に、胸の奥で小さな恐怖が芽を出す。

(もし、見つかったら……)

喉が鳴る。
でも、もう後戻りはできない。

馬車はゆっくりと動き、城壁の影に入り、そして街の中へ。
人の声が近づき、石畳の音が羽の先を震わせた。

——ようこそ、街へ。

数分後、荷車が停まる。
荷をほどく人影が近づく気配。

飛鳥は、すぐにその場を離れた。

視界の隙間を縫うように、建物の裏を抜け、
誰もいない倉庫街の隅へと逃げ込む。

そこは、湿った石壁と木箱が並ぶ静かな空間。
生きものの匂いはなく、ただ土と乾いた草の匂いがした。

ようやく、息を吐いた。

「……入れた……」

声は、かすれたささやき。
心臓がまだ、跳ねるように脈を打っていた。

けれど、その目は——
少しだけ、光を宿していた。

***


倉庫街の一角。誰もいない木箱の隙間。
飛鳥は、丸まるようにして身を潜めていた。

冷たい石壁に背を預け、浅く息を吐く。
街に入った。それだけでも、心は浮き立っていた。
けれどこのままでは、人に見つかる。

(……なにか隠せるもの、あれば……)

視線を巡らせると、積まれた麻袋の奥に、それはあった。

粗末だが大きく厚手の、フード付きの外套。
たぶん、誰かが放り投げて忘れたままになっている。

「……これ……」

手ではなく、翼の先を器用に引っ掛けて、そっと引き寄せる。
外套は思ったより重かったが、飛鳥の細い身体をすっぽりと包み込んだ。

フードを深くかぶると、羽根も足も見えない。
ただの、ちょっと背の低い旅人のように見えた。

(……これで、きっと……)

羽が隠れた安心と、街の中にいられるという喜び。
小さく、でも確かな安堵が胸に灯った。

***

夜の街は、石畳の上に灯がこぼれていた。

橙色のランプが揺れ、通りにはちらほらと人影。
焼きたてのパンの匂い。香草のスープ。遠くで弦楽器の音色。

飛鳥は外套のフードを深くかぶり、下を向いて歩いた。
緊張で足がぎこちない。
でも、それでも——楽しかった。

角を曲がると、露店の老女が声をかけてきた。

「お嬢ちゃん、寒いだろう? お芋あったかいよぉ」

飛鳥は、少し驚いた顔をした。
返事が遅れて、ぎこちなく頷く。

「あ、あの……ありがとう……」

それだけ。
ただそれだけの会話だった。

けれど、心が——ぐん、と高く跳ねた。

(……喋れた……)

言葉が届いた。
相手は、笑ってくれた。

嬉しい。胸が熱い。
さっきまでの冷えた石壁が、遠く感じる。

そのまま通りを進むと、にぎやかな音が響いてきた。
弦楽器。笑い声。グラスの音。

ひときわ明るい建物の前に、灯がにじんでいる。

「……あれ……?」

扉の上には、月と星を描いた看板。
酒場だ。

木枠の窓から、黄色い光がもれていた。
中には人がいて、笑っていて、手を叩き、歌っている。

飛鳥は、引き寄せられるように扉を押した。

中は、思ったよりも温かかった。

酒の匂い。パンの香り。
焚き火の音。楽器の旋律。

飛鳥はそっと、隅の席に身を滑らせた。
人目につかぬよう、フードを深くかぶったまま。

誰も気に留めない。
誰も、彼女を“異物”とは見ていなかった。

「……すごい……」

まるで、夢みたいだった。

人の中にいる。
同じ空気を吸っている。
笑い声のある世界の中に、自分がいる。

胸が、どくどくと脈打った。
これが、ずっと欲しかった景色なのかもしれない。

——しかし。

酒場の扉が、ばたん、と開いた。

「おーい! こっちだ、もう一杯行こうぜ!」

あの声。

あの笑い方。

昨日、森で自分に矢を放った——狩人たちだった。

飛鳥は、凍りついた。

(……どうしよう……!)

彼らがこちらを見たわけではない。
ただ、酒を手にして陽気に騒ぎながら、カウンターに向かっていく。

けれど飛鳥の中では、あの日の記憶が一気に蘇る。

冷たい視線。引かれる弓。自分に向けられた「化け物」という言葉。

「……っ……!」

飛鳥は立ち上がろうとした。
逃げなきゃ、ここを出なきゃ——!

しかし。

足が、動かない。
恐怖で固まった脚が、地面に縫い付けられたようだった。

一歩、逃げようとした瞬間。
固まった脚が、椅子の脚にひっかかる。
そして、慌てて動かした羽根が、外套の裾を巻き込んだ。

「うっ……!」

ばさっ——!

床に崩れる音と同時に、羽根が一瞬、灯りの下に覗いた。

静寂。
近くにいた誰かが、振り返る。

「……ん? 今の……?」

狩人のひとりが、酒を持ったまま、眉をひそめる。

(——見られた!?)

飛鳥の心が、止まった。


つづく
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