投稿日時 2025-05-07 21:21:12 投稿者 ![]() 矢崎 那央 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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「……え?」 草むらの向こうで、何かが動いた。 飛鳥(あすか)は泉の縁に座ったまま、音に耳をすませた。 長い黒髪を一つに束ね、青緑の翼を肘から先に抱いた異形の腕。 鱗の脚を折り、静かに地面に触れていた。 足音——二つ、三つ。重く、規則的。 枝が踏まれ、草が割れている。 (だれか、来る……?) 急いで羽をたたみ、姿勢を低くする。 だが、翼は大きすぎてうまく隠れられない。 風のように逃げることもできない。 木に登ることも、飛ぶことも、まだできない。 「おい……見たか、今の……! あの茂みの奥——」 声がした。 荒い声。低く、警戒を含んだ男たちの言葉。 狩人だ。 飛鳥はその言葉を知らなかったけれど、彼らの“目”を見ればわかった。 それは、獣を見る目だった。 ——狩る者の目。 「何かいるな。……足跡、これ、鳥じゃねぇぞ。人間の足でもねぇ……なんだ、この形……?」 足音が近づく。 飛鳥は恐る恐る立ち上がり、後ずさった。 泉の縁の水音が、不安に波を立てる。 そして、茂みが割れる。 「うっ……な、なんだこいつ……っ!」 「……おい……おい、見ろよ……!」 男たちが顔を見合わせた。 飛鳥も、彼らを見た。 泥のついた革の靴、粗雑な服装、手には弓。 人間。言葉を話す、人間。 けれど——その目は、飛鳥の姿を“人”として見てはいなかった。 「あれ、翼……? 腕じゃねぇ……」 「脚が、鳥……? いや、あれ……女か? 顔は……女だよな、あれ……」 「けど、あの目……動物の目だ。獣だ。どうする……?」 飛鳥は息を詰める。 何もしていないのに、彼らの目は剣より鋭く、冷たかった。 一人の男が、ゆっくりと弓を構えた。 「……悪いがな、ここは人の森だ。得体の知れないもんは……狩ることになってんだよ」 びく、と飛鳥の羽が震える。 脚がすくんで、後退ることもできない。 (あたし……また、檻の中に戻るの……?) そのときだった。 風が、木々を揺らした。 ——ただの風だった。 けれど、その風が、飛鳥の羽を撫でた瞬間、彼女の体がほんのわずかに動いた。 弓の男が、反応する。 「動いたぞッ——!」 ピンッ! 乾いた音と共に、矢が放たれる。 飛鳥は目を閉じ、翼を前に出して身を守るようにとっさに動いた。 バサッ! 風が、羽ばたいた。 矢は当たらなかった。 けれど、羽根の間をかすめ、地面に突き刺さる。 「チッ、外したか——逃げたぞ!」 「追えッ!」 飛鳥は、足をもつれさせながらも、草の中を走り出す。 重い翼が引っかかる。けれど、それでも必死に逃げた。 怖かった。 なにもしていないのに、殺されそうになった。 (やっぱり、あたし……人じゃないんだ) 胸が締め付けられた。 ——けれど、それでも。 (……生きたい) そう思った。強く、はっきりと。 風が、飛鳥の背を押した。 どこかで、誰かがその風を送った気がした。 *** 飛んでいた。 ……いや、違う。走っていた。 翼は羽ばたいていない。空も舞っていない。 ただ、必死に、草をかき分け、木の根を跳び越え、 倒れかけた枝にぶつかり、羽を引っかけながら、逃げていた。 「っは……はぁ、は……!」 息が荒い。肺が焼けるよう。 脚が重い。羽が邪魔。目に汗が入る。 それでも、飛鳥は止まらなかった。 どこをどう走ったかも、もう分からない。 泉も見えない。音もしない。 ただ、風だけが——自分の逃げた証のように、後ろから追いかけてくる。 やがて、倒木の影にたどり着き、羽を畳む余裕もなく、地面に倒れ込んだ。 「……っは、は……っ……やだ……やだ……!」 声が、勝手にこぼれた。 涙が、地面に染みた。 あの狩人たちの目が、焼き付いて離れない。 (あたしを……人だと思わなかった) (喋ってないのに……まだなにもしてないのに……) (——獣だって。得体の知れないもんだって) 震える手はない。だから、翼を抱いて、丸くなる。 もがくように足を折り、うずくまる。 「……いやだ……」 「この羽がいや……この脚もいや……どうして……こんな姿で……」 喉が震える。涙が止まらない。 あのとき、自分の羽が矢を弾いたこと。 風が背を押したこと。 逃げられたこと。 ——それすら、喜べなかった。 (だって……みんなあたしを……) (気持ち悪いって、思ってるんでしょ……?) その思考が渦巻く。 “普通の女の子みたいな腕”があれば。 “人間の足”で立てていたなら。 (あの人たち、あたしを……狩ろうとは、しなかったのかな……) そう思った瞬間、ぐしゃ、と足元の草を掴んだ。 「……化け物、なんだ……あたし……」 小さく、吐き捨てるように呟いた。 その言葉は誰にも届かず、ただ、風の中へと消えていく。 しばらく、何も起きなかった。 飛鳥はただ、泣いていた。 だけど—— ほんの一瞬、遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。 カワセミの声だった。 ——一羽だけ、空を滑るように飛ぶその声。 それは、風と光の記憶を連れてきた。 「……」 飛鳥は、顔を上げた。 まだ涙は乾いていないけれど、その瞳の奥で、何かが動いた。 (あたし……知ってる……あの鳴き声……) (あれは……どこかで、聞いたことがある……) 小さな記憶のかけらが、羽の奥から浮かび上がる。 それがなんなのか、まだわからない。 でも、心がほんの少しだけ——あたたかくなった気がした。 風が、草を揺らす。 飛鳥はゆっくりと翼をたたみ、膝を折って座り直した。 涙の跡が乾いていく。 夜の匂いが、空から降りてきていた。 つづく |
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