君は、風に還る 第四章 ー風の感触、羽の記憶ー お気に入り画像登録
君は、風に還る 第四章  ー風の感触、羽の記憶ー

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投稿日時
2025-05-07 20:58:08

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矢崎 那央

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一歩、また一歩。
草の上に、かすかな音が落ちる。

鳥籠を出た少女は、風に触れながら、ゆっくりと歩いていた。

頬に沿う長いもみあげが、風に揺れる。

幼い瞳の奥に、寂しさを滲ませた、半人半鳥の少女。

彼女ーー飛鳥(あすか)は、檻の外に出た。
そして、初めての空気。初めての光。

それは決して“まぶしい”わけではなかった。けれど——

「……風、あったかい……」

翼が、そっと揺れた。
肘(ひじ)から先が羽根に変わった自分の両腕。
どこか重たくて、けれど心の奥に、何かがうずく。

飛鳥は、ゆっくりと翼を広げようとする。
だが——うまくいかない。

関節が、どこにあるのか。
羽ばたくためには、どこに力を入れればいいのか。
何も、思い出せない。

「……飛べない……」

つぶやきは、すぐ隣にいた少女に届く。

色の抜けたような白い肌に、長い白髪を高く結い上げた姿。巫女装束に、狐面を被る少女ーー九重(ここのえ)は答えた。

「……せやろなぁ。けど、今はそれでええんどす」

九重は、いつもの調子で扇子を開いたまま、そっと座り込む。
脚を横に流して草の上に腰を落とし、ちらりと飛鳥を見やる。

「飛べんことが、罪なわけやない。忘れたんは、忘れたんでしゃあ無い。せやけど……」

扇子を畳み、その先で飛鳥の胸のあたりに軽く触れる。

「ここが、風を覚えとったら——いつか、また羽ばたけますえ?」

飛鳥は、ふと地面に目を落とした。
桃色の鱗に覆われた鳥の脚。その足先が、柔らかく草を踏みしめている。

「……あたし、なんでこんな姿なんだろ……」

「……それは、わからへん...でも...」

九重は、さほど間を置かず答えた。

「あんたは、あんたや。あんたは“飛鳥(あすか)”ていう、誰も代わることできへん、たった一人の娘や」

飛鳥は、はっと顔を上げた。
九重の瞳が、狐面の奥からこちらを見つめていた。

「……“飛鳥(あすか)”って、わたしの名前……だよね」

「せや。あんたが飛びたがる目ぇしとったから、そう呼ばせてもろた。
気に入らへんかったら、変えてもよろし。けどな……」

九重は、風を感じるように目を細める。

「——その名前はな、あんたを見た時に、風と一緒に吹いてきたんえ?」

と言って微笑みながら、飛鳥を見つめた。

飛鳥は、自分の名前を心の中でそっと繰り返した。
“飛鳥”。

小さくて、でも羽音のように軽やかで。
檻の中では見つけられなかった音だった。

「あの……ありがとうございます。九重...さん...」

「九重(ここのえ)、でよろし」

「ありがとう。九重...」

飛鳥が微笑んだ。

その笑みを見て、九重はほんの一瞬だけ——
面の奥で、やわらかな微笑みを返した。
けれどそれもすぐに消え、またいつもの仮面を戻す。

「……ほな、行きなよし。風が止まる前に」

「九重は...付いて来てはくれないの?」

飛鳥はオズオズと聞いた。

「ウチができるのは、檻の鍵を開けるまで。その先を進むんは、あんた自身や」

飛鳥は、すこしだけ泣きそうな、不安そうな顔で俯く。

「だいじょうぶ。ウチも、さっきの子...アジュールも、ちゃんと見守ってて、いざっちゅう時には助けたるさかい」

飛鳥は、きゅっと口元を結び、顔を上げた。

「さあ、飛鳥ちゃん。行きなよし」

「...うん!」

飛鳥はまだ飛べない。
けれど、足はある。
そして——名前も、ある。

少女は草を踏みしめ、森の奥へと歩み出す。
光と風の交わる方向へ。まだ見ぬ空を探して。

その背を、九重はそっと見送った。
風の中にただ一人、座ったまま。

「……旦はん、今回ばっかりはなぁ。
あの子の自由を押し込めるんは、ええ事とは思われへんえ?」

その言葉は、誰に届くでもなく、風に溶けていった。


***


森は静かだった。

太陽は高く、葉を透かして地面に淡い光を落とす。
小さな風が、枝葉の隙間をすり抜け、鳥の声さえも揺らすことなく過ぎていく。

飛鳥(あすか)は歩いていた。

肘(ひじ)から先が翼(つばさ)に変わった両腕をやや持ち上げるようにして、
長く細い鳥の脚(あし)で、慎重に草を踏みしめながら。

翼は、枝に触れればすぐに音を立ててしまう。
草に引っかかるたびに、足取りは鈍り、動きはぎこちなくなっていく。

「……ごめん……」

誰にでもなく、そう呟いた。

転びそうになって、地面に手をつこうとして——手がない。
翼しかない自分の姿に、また少しだけ心が沈む。

「なんで、あたしだけ…こんな…」

呟いても、返事はない。
風はただ、すり抜けていくだけだった。

ふと、小さな小川のせせらぎが聞こえた。
その音に導かれるように、飛鳥は歩を進める。

やがて、水面がきらきらと揺れる場所に出る。
そこには、小さな泉のような浅瀬があった。


飛鳥はそこに腰を下ろす。
脚を折り、翼を畳んで、そっと地面に触れるように座る。

「……冷たくて、気持ちいい……」

足の指で水をすくい、ぴちゃぴちゃと遊ぶ。
指先が草を撫でるように、水の上をたどる。

手はないけど、あたしには足がある。
翼は重いけど、風を感じることができる。
そう思ったとき——

「……あたし、ここにいてもいいのかな……」

また、誰に聞くでもなく、そう問いかけた。


答えはない。
でも、水面がふるえて、風がそっと髪を揺らした。

飛鳥は目を閉じて、風の音に耳をすます。
遠くで鳥の声がした。虫が飛ぶ音がした。
どれも、自分とは違う命の声。

でも——


「……あたしも、ここにいるんだよ」

 
そう小さく呟いたとき、胸の奥にあたたかい何かが灯る気がした。

森のどこかで、小枝が折れる音がした。
けれど飛鳥は、もう振り返らなかった。
今はまだ、“誰か”を探すよりも——

「……あたしの風を、探したい……」

そう、静かに思った。

泉のそばで、風を抱きしめるように、少女はひとり——座っていた。


それは、孤独ではあるけれど。
ほんの少しだけ、自由な時間だった。


——つづく
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