投稿日時 2025-05-07 18:58:47 投稿者 ![]() 矢崎 那央 このユーザのマイページへ お気に入りユーザ登録 |
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森は深かった。 梢は風にそよぎ、鳥も鳴かず、ただ木々の葉擦れが音を立てていた。 獣道を抜けた先、そこだけぽっかりと空が開けていた。 太陽の光が、すり硝子越しのようにぼんやりと地を照らす。 苔むした石板に囲まれた古いラボ。天井は半ば崩れ、蔓草が垂れ下がる。 まるでそこだけ、時の止まった庭のようだった。 扉が軋み、ふたりの影が入ってくる。 ひとりは白衣を羽織った男。 その後ろに控えるのは、背の高い一人の少女。 「……ここが、その子を置いてある場所なん?」 少女は、淡く息を吐きながら、冬の朝の吐息のように澄んだ声で男に尋ねた。 その少女の姿は、まるで雪のような白い肌。 長い白髪を高く結い上げ、朱の袴を揺らす巫女装束。手には朱扇。 目元を覆う朱の隈取のある狐面の奥、その黒い瞳が静かにあたりを見回していた。 白衣の男は、顔立ちに乏しく、感情の見えない仮面のような目をしていた。 「初めて案内するな、九重(ここのえ)。おまえには、まだ見せていなかった」 と、男は言った。 「おまえの力が要る。この檻の結界を補強して欲しい」 「……はいな。仰せのままに。けど、旦はん……」 九重と呼ばれた少女は一歩、男の背後に寄った。 「……この“娘(こ)”のこと、よう言わはりませんなあ。何者で、なぜ閉じ込めるんか…… ウチ、何も訊いた覚えがあらしまへんえ?」 「別に、おまえが知る必要がなかっただけだ」 白衣の男はラボの中央、細工の施された巨大な鳥籠を指差す。 中には、長い睫毛の瞳を閉じて眠る、小柄な少女の姿。 長い黒髪を、前髪を額にかけて下ろし、背中で一つに結わえている。 顔立ちはあどけなく、丸みを帯びた頬に小さな鼻。 長いもみあげを、幼さの残る頬から、少し尖った顎に沿わせて垂らしている。 淡く桃色がかった、明るい色の肌をした顔は、一見すればどこにでもいる普通の子供のようだった。 しかし、その身体は——異形の存在だった。 肩から肘までは人間のそれだが、肘から先は、大きな鳥の翼に変わっている。 それが、大きく鳥籠の底いっぱいに広げられていた。 羽根は青緑。 カワセミのような輝きを帯びて、わずかに濡れたような光を宿していた。 肩が露出し、肘丈のケープレットスリーブのチュニックでは、異形の体を隠せてはいない。 膝から下は、桃色の鱗に覆われて長細く、あたかも鳥の脚のように見える。 そのか細い足では、まともに歩くことすら難しいように思えた。 膝上の、短い若草色のスカートから除く華奢な太腿が、膝から下の異形を強調していた。 まるで、人間のふりをしている鳥のような、 あるいは、ほんの少しだけ作り損ねられた少女のようなソレが、 脚を投げ出して、横向きに身を倒し、黒い鉤爪で柔らかな干し草をつかんでいた。 「……まぁ……」 九重は思わず呟く、扇子を閉じる。 その姿に、心の底に何かが波紋のように広がる。 それが、あまりにも弱々しいソレへの慈愛なのか、哀れみなのか——自分でもわからなかった。 「この子……目ぇ覚ましはった時、何て言うんやろなぁ……」 「名も知らぬ鳥は、目覚めたとき、囀りで己を知る...か」 白衣の男は、九重の呟きに独り言のように返すと、籠の周りに円を描くように歩き出した。 九重は、その後に従う。朱扇を広げ、足元に一歩ずつ結界の符を刻み込む。 「コレが逃げることはない。……だが、念のためだ」 「——はぁ、心得ました。けど……」 九重は、そっと籠の中の少女へと視線を向ける。 まるで風のように、今にも消えてしまいそうな儚い存在。 ——そんな檻に、あの子を閉じ込めて。 ほんまに、旦はんは、それでええて思てはるん? 「……せやけど、旦はん。もし、この子が“自分で籠を出たい”て言い出しはったら……どうなさるつもりでおりますの?」 白衣の男は、足も止めずに答えた。 「その時は、出られぬ様、封を強化するだけだ」 そう答える声は、それが当たり前だが、どうした? とでも言うかの様に無機質だった。 九重は、それ以上なにも言わなかった。 だが、仮面で隠れた瞳の奥に、横たわる儚げな存在に向けられた何かが、僅かに揺らいでいた。 風が一筋、ラボの崩れた天井に差し込んだ。 羽根を揺らすにはあまりにもかすかな風。 けれど、それが“運命”の息吹であることを、誰もまだ知らない。 ——つづく |
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